学校でデッサンを教えている時に考えていること
私が専門学校で担当している科目は、アナログのデッサンで、クラスはコンピューターグラフィックスのコースです。ここでのコンピューターグラフィックスとは、ゲームや映画等で擬似三次元空間を作る技術をさします。
ところで、かつて私自身がデッサンを学んだのは半世紀も前のことになります。ですから、そこでのデッサンに対する考えも方法もすでに時代にそぐわないものになっているのかもしれません。しかし、擬似三次元空間を作る、いわゆる本物そっくりを目指している場合、それが役に立ちます。
さて、私が学校で教えるのは専門的な職業に就くための技能訓練としてのデッサンです。多くが企業に就職し、その組織の一員となります。それゆえ、場合によっては個性ある独特な表現が嫌われるでしょう。芸術家・創作家を育てるものとは少し違うのです。
実際、その職業訓練的デッサンからはみ出し、個性的なデッサンを描く学生が何人かは必ずいます。彼らには、それが就職には不利に働く可能性を伝えますが、否定はしないで彼ら自身の選択に任せます。
それよりも、難しいのは別の学生達です。絵を描くのが苦手で、なおかつコンピューターグラフィックスに興味があまりない学生も一定程度必ずいます。それで、彼らは最終的には専門的な職業に就かず一般の企業に就職します。
何より、目的のない技能訓練は辛いものです。そして、彼らの多くは美術に特別な関心を持っていません。しかし、デッサンの目的を擬似三次元空間の制作技術向上に限定しなければ、デッサンはより意義ある豊かな体験の機会となるのです。
あえて言えば、私自身が受けた昔のデッサン教育を越えます。デッサンで何が学べるのか、それは、言葉とイメージがせめぎ合う人間が生きている世界の成り立ちです。「自然は芸術を模倣する。」の芸術をデッサンに変えても良い。さらに、単に芸術家を育てるものではなく、人々の関心を目の前の生活に向けさせ、心を豊かにするものです。その場合、石膏デッサンで大切なのは、如何に上手く写したかではありません。すべきことは、いにしえの彫刻家との語らいです。例えば、メジチ首像を描くなら、その髪の表現からミケランジェロの内面のリズムを感じ取ることです。これは、一般的なのに高度な、万人のものでありスペシャリストのものです。でも、この考えは分かりにくいでしょう。
問題は、そのことを専門職に就かず芸術に関心もない学生に伝えられるかです。そして、彼らにデッサンへの興味を持たせ、描く気にさせる能力が私にあるかと言うことです。それと比べれば擬似三次元空間を平面に作る技術を学生に教えるのは簡単なことです。
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