源氏物語を学ぶ

この日本を代表する大長編を駆け足で巡ってみましょう。

『源氏物語』とは

 『源氏物語』は、日本の平安時代の中期(794年 – 1185年/1192年頃)に、紫式部によって書かれた長編恋愛小説です。正確な、成立年は分かっていません。しかし、紫式部が書き残したといわれる『紫式部日記』には1008年には『源氏物語』の冊子がつくられたという記述があることから、そのころまでには大部分が書かれていたと考えられています。『源氏物語』は、全体で54帖(54巻)にも渡る長編で、70年もの年月を描いた物語の中に、登場人物は500人余り、物語の中で読まれている和歌は800首ほどあります。物語はフィクションですが、その当時の政治背景や文化的背景が反映しているともいわれます。主人公は、「恐ろしいまでに美しい」といわれた光源氏という男性で、物語は光源氏と女性たちの恋愛模様を中心に描かれています。
 『源氏物語』以前は、話の筋だけを書く『竹取物語』や『宇津保物語』などの不思議な物語が主流でした。それに対し『源氏物語』では、登場人物の心理描写が細やかにリアリティを持って描かれました。それまでの物語のあり方を変えた『源氏物語』は、日本の古典文学の最高傑作ともいわれます。

作者・紫式部とは、どのような人か

 『源氏物語』の作者は、紫式部という女性です。名前を藤式部といい、『源氏物語』の紫の上に因んだ通称を紫式部といいます。970年頃に生まれ、1014年頃に亡くなったと推測されます。紫式部は、『源氏物語』の他に『紫式部日記』、『紫式部集』を残しています。
 父親は、優れた歌人・詩人としても知られる漢学者の藤原為時、曾祖父の兼輔も有名な歌人でした。紫式部が生きた時代は、女性が学問をすることは恥ずかしいことであると考えられていました。しかし、紫式部は父親が弟の惟規に講義をしているのを傍らで聞き育ちました。弟よりも覚えがよく才覚に優れていたために、男子でなかったことを悔やまれたという逸話があります。紫式部は、父為時の赴任に伴って旅をした経験から、様々なものを見聞きしたといわれます。
 父為時の赴任が終わり、京に戻ってから紫式部は20歳以上も年上の藤原宣孝と結婚をし、子供をもうけました。しかし2年という短い結婚生活の後、夫は他界しました。夫との死別後、中流階級で生活が安定せず、子供も抱えていた紫式部は『源氏物語』を書くようになりました。その『源氏物語』が認められ、20歳代後半で宮中に努める女房になりました。仕えたのは、藤原道長の娘、一条天皇の中宮であった彰子でした。しかし、宮中の生活に馴染むことは難しく、初めての出仕後5か月あまりも家に引きこもったといいます。この時代、夫以外の人の目に多くさらされる女官は、はしたない女性と思われることもありました。
困難を抱えながらも、紫式部は宮廷で密かに彰子に漢語を教えたり、学問の才能を開花させ『源氏物語』を書き続けました。『源氏物語』は、彰子はじめ、宮中に仕える女官、藤原道長や一条天皇にも読まれていました。

『源氏物語』のあらすじ

54帖からなる長編の『源氏物語』は、3部に分けて考えられます。
第1部は、1帖「桐壺」から33帖「藤裏葉」までで、主人公の光源氏の誕生から39歳までの栄華と恋愛の話です。
 桐壺帝のもとに入内した桐壺更衣は、その美しさから帝から大変愛され、周囲の嫉妬に耐え切れず体調を崩している中「玉の男御子」の光源氏を出産します。その後、更衣は亡くなりますが、光源氏は大変美しく、学問や音楽にも超人的な才能を持つ男子でした。桐壺帝は、人相見に「帝王の相」がありつつも世が乱れるといわれたことで、この男子を新王にはせず、臣下として源氏名を与えます。
 光源氏は実母、更衣によく似た義母の藤壺に思慕の思いを抱くようになります。叶わない思いを抱きながらも、光源氏は12歳で左大臣の娘、「葵の上」と結婚をします。その後、人妻である「空蝉」や、人違いして関係を結んだ「空蝉」の義理の娘「軒端荻」、お互い素性も知らないで関係をもったのちに死んでしまった「夕顔」、貧しく容姿も優れない「末摘花」、好色な老女「源典侍」、甥の元へ入内する予定があった美しい「朧月夜」など、次々と女性と関係を持ち青春を謳歌します。
思いを寄せていた義母の藤壺にそっくりな姪、可憐な少女「紫の上」を引き取り、教育を受けさせ自分の理想の女性に育て、成人すると関係を持ちます。義母「藤壺」との間にも関係ができると、「藤壺」は光源氏の子供を懐妊します。紅葉賀の帖では、光源氏は青海波を舞い、恐ろしいほど美しいといわれます。「藤壺」は、光源氏の子供を桐壺帝の子として産みます。その不義の子は、後の冷泉帝です。「藤壺」は、光源氏の猛烈なアプローチと、不義の子を産んだ秘密に悩み、桐壺院が亡くなると出家します。光源氏は、順調に出世しました。光源氏への思いが強かった「六条御息所」は嫉妬から、生霊となり「葵の上」を取り殺します。
 桐壺院のあとを継いだ朱雀帝に入内が決まっていた「朧月夜」との密会を重ねていたことが明るみに出ると、流刑の罪を恐れて自ら須磨へと退去しました。須磨では約3年、侘しく暮らした後、桐壺更衣の縁続きである明石の入道の娘、「明石の君」と結婚しました。朱雀帝が患い、譲位に際して光源氏は京へ戻り、新帝冷泉帝の後見人になり右大臣になりました。京へ戻った光源氏は、かつて関係を持った「末摘花」の悲惨な状況を哀れみ庇護のもとにおきます。光源氏は、六条院と名付けた大邸宅を建てます。「紫の上」、「末摘花」、「明石の君」も住むようになります。次々に現れる女性に、「紫の上」は嫉妬心を持ちます。冷泉帝は兄だと思っていた光源氏が実父であることを知ります。
光源氏は昔関係のあった「夕顔」の遺児「玉鬘」を引き取ります。美しい「玉鬘」は、髭黒の大将や、柏木などからも恋文を受けますが、光源氏も思いを寄せていきます。「玉鬘」は、数多いた求婚者の中から一番気の進まない髭黒と結婚しますが、気持ちは光源氏にありました。実子である冷泉帝が即位し政治的にも強い権力を持ち、六条院には妻や子供を持つ、これまでが光源氏の栄華が極まっている時期でした。

第2部は、34帖「若菜・上」から41帖「雲隠」までです。権力も、家庭もすべてを手に入れた光源氏の人生も陰りを見せます。

 光源氏が、異母兄弟であった朱雀院の娘である「女三の宮」と結婚したことを機に「紫の上」は発病します。それは「女三の宮」への気遣いのせい、そして過去の女性「六条御息女」が再び死霊として現れたせいでした。その裏で「女三の宮」は、「柏木」と密通し懐妊します。光源氏も、かつて義母藤壺との間に、冷泉帝を設け不義の子供をつくった因果応報を思いながら、「柏木」と「女三の宮」の間にできた不義の子「薫」を自分の子供として育てることになりました。「柏木」は、光源氏に事実を知られた恐ろしさで病死、「女三の宮」は「薫」を光源氏に残し出家します。その間も、「紫の上」の病状は悪化、出家を願いでますが、光源氏はそれを許しませんでした。「紫の上」は心もとない不安を胸にしたまま亡くなりました。「紫の上」の死去に悲嘆した光源氏は出家を考えます。「紫の上」の一周忌の後、光源氏も亡くなります。

第3部では、光源氏の死後、物語の中心は息子「薫」の話へ移ります。42帖「匂宮」から54帖「夢浮橋」までです。
 
 薫は、生まれながら体から良い匂いが香り立つ、気品を備えた若者に育ちました。光源氏の子として周囲に大切に育てられたにも関わらず、どこか憂いを帯びた世俗から離れた人でした。「明石の姫君」と、帝の間に生まれた匂宮と競うように育ちました。匂宮は、自分の着物に香を焚き締め良い匂いがする若者でした。薫は柏木の乳母の娘(弁の君)かた自分の出生の秘密を知らされます。そして宇治に隠遁していた「八の宮」の姉妹の姉「大の君」に恋するようになります。しかし、「大の君」との結婚は拒否され「大の君」は亡くなります。匂宮が妹「中の君」と住むようになると、「中の君」に思いを寄せるようになりました。
 薫と匂宮の間で困った「中の君」が紹介したのは、異母姉妹の「浮舟」です。「浮舟」は、八の宮が侍女に産ませた娘でした。「浮舟」は薫と匂宮、両方から思いを寄せられ、翻弄された末に、宇治川に身を投げてしまいます。しかし、「浮舟」は比叡山の高層によって命を助けられていました。「浮舟」は出家します。薫は「浮舟」に文を出しますが、会えることはありませんでした。

『源氏物語』は、光源氏の出生からその息子の薫への物語へと、70年もの長い歳月を描き、幕を降ろします。

日本人がどのように『源氏物語』を受容してきたか

 『源氏物語』は、執筆された当時から爆発的な人気を得ました。最初は、紫式部の近辺の人物が回し読みする形で広まりました。その人気は、権力者、藤原道長にも伝わりました。紫式部が、道長の娘である彰子に仕えるようになったのも『源氏物語』の人気故だったと考えられます。出仕した後は、彰子に仕える女性が写本をするなどして、物語が伝わっていきました。次第に、和歌の教科書のような扱いを受け、皇族や貴族、僧侶などにも読まれるようになりました。
 江戸時代になると出版技術が進歩して、裕福な町人などにも読まれるようになりました。出版された本には、挿絵が多く含まれ『絵入源氏物語』として挿絵とともに人気をえました。『源氏物語』の世界は、屏風、調度品や工芸品、着物の図柄など生活用品の中にも取り入れられるようになりました。双六やかるたなどの遊具の素材にもなり、さらには五種のお香を聞き分けて、5本の線で示す源氏香といった遊びも生まれました。5本の線で作られる源氏香のデザインは、衣装や調度などにも用いられました。
江戸後期からは、古典文学の研究の対象としてみられるようになり、新訳や注釈本などが様々出版されました。国学者、本居宣長の『源氏物語玉の小櫛』で提唱される「もののあわれ」論などが有名です。色鮮やかな多色刷りの錦絵の技術が取り入れられるようになった、江戸時代、1765年頃からは鈴木春信や歌川国貞などによって、『源氏物語』の見立て絵などが多く作られ普及しました。見立て絵とは、古典作品の題材を当世風にアレンジした作品をいいます。
 『源氏物語』が庶民の娯楽として更に一般に広まる機会をつくったのは、明治45年に出版が始まった与謝野晶子の『新訳源氏物語』です。それ以降、谷崎純一郎や円地文子、田辺聖子、瀬戸内寂聴などにより現代語訳が出版されました。戦時中には、天皇に関する「不敬罪」の適用で、規制がかけられ弾圧され、谷崎純一郎の新訳の『源氏物語』の一部が削除される、小学生の国語教本に掲載された源氏物語の削除が訴えられるなど、『源氏物語』は天皇に対する「不敬の文学」であるという非難にさらされた時期もありましたが、戦後には、そのような非難もなくなり、また一般に楽しまれるようになりました。
絵画の世界でも、明治時代、梶田半古(1870~1917)、上村松園(1875~1949)、安田靫彦(1884~1978)などの画家によって、『源氏物語』が描かれました。それらは従来の錦絵とは異なる、新しいタイプの『源氏物語』でした。
 現代でも、現代語訳された『源氏物語』は、購入しやすい文庫の形にされるなど私たち一般人の手に入りやすいようになっています。『源氏物語』を題材とした映画、漫画や、エッセイなども多数出版されています。『源氏物語』から男性を語る、女性を語る、愛の形を語る、または美、人生、歴史、政治を語るなど、様々な形から切り込んでいけるのが『源氏物語』のユニークな点でしょう。その懐の深さゆえ、『源氏物語』は、文学の枠を超えて絵本や絵画、小説、工芸、遊具、着物デザインなど様々な形で広く取り入れられ、平安時代から現代まで途切れることなく日本人の生活に密着してきたのです。『源氏物語』をどのように日本人が受容していったのかを改めて見ていくと、日本人は『源氏物語』を「文学」として楽しむよりも、「どのように『源氏物語』を使って楽しむか」、という点に重きを置いている様子が見えてきます。

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