失望と希望
新作を複写・印刷して少しばかり角度を変えてみたら、思ったより出来が悪く落ち込みました。
その気分を救おうと不覚にも真逆なことをしてしまいました。自分にとって理想的な絵画、ここ十年で最も好きなものを見てしまったのです。
アフリカ、クバ族のアップリケです。あまりにも超然としていて取り付く島もありません。突き放されました。もうひとつの理想絵画、ラスコーの壁画も見るまでも無く同じだろうと思い画集も開きませんでした。
私たちのようなせせこましい打算や名誉欲から縁遠い表現に最高の敬意を払って来ました。彼らとくらべればいわゆる巨匠達の仕事すら怪しいものを感じます。
しかし、今日、その巨匠達を思うと、世俗的な欲に傷つけられた作品が愛おしくなってきました。何かが欠けて理想から退いてしまった分、見る者を癒やし惹かれるものがあります。
生活と表現の葛藤の中でチョットばかり歪んでしまった作品には不純な魅力があるのです。
別な見方をすれば、熊谷守一が叙勲を断った時、同じく断った坂本繁二郎について、彼は無欲な人だが良い絵を描こうという欲はあった、私にはそれもないと語ったそうで、無欲に徹するなら良い絵を描く欲も捨てるべきです。
私を捉えてきた理想絵画、ラスコーの壁画やクバ族のアップリケとの間に溝ができてしまいましたが(あるいはその溝を見ないようにして来たのかもしれません)、自分の絵も含めて多くの絵への慈しみを取り戻した気がします。それらのいかがわしさゆえに。絵は広い意味で人間的なものです。
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