見えないもの
随分昔のことですが、後片付けのいらない使い捨ての紙パレットで絵を描く美大生を見て教授が嘆いていたものです。学生としては出来る絵に何の違いがあるのかと思います。絵を並べて木製パレットと紙パレットどちらを使ったのか区別することは不可能でしょう。
このことだけを取れば教授の古い精神論と片付けてもたいした問題ではありません。そう、もっと大切なことに意識を集中するべきだ。しかし。時間をずっと遡れば絵具もカンバスも筆すら(あるいはそれらに相当するもの)もわざわざ絵を描く人が作っていた時代があります。
制作活動の合理化のために一見非本質的と思われるものを人は排除してきました。確かに何か画材を自作したとかよりも他の要素で作品は大きく変わるでしょう。単純な比較に差は出ないことが多いと思います。
しかし、何万年か前、暗い洞窟に動物の血か泥かを絵具にして棒か筆のようなもので絵を描いていた人と比べ、快適にお膳立てされた環境で絵を描いている私達は、面倒に煩わされず本質的なことに気持ちを向けて良いを絵を描いていると言えるのかどうか。
実は、作品の内容と関係ない些細なこととして切り捨てて来た多くのものに、ほんの僅かずつ大切ことが含まれていて、近視眼的には何も失っていないように見えてもゆっくりと絵の空洞化が進んでいると考えたらどうでしょう。楽に簡単に絵を描く方法の追求が行き着く果ては何か考えてみるべきです。
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